日本刀の歴史、誕生

直刀時代…

 国内で日本刀と呼ぶようになったのは明治以降のことで、それまでは太刀、刀と呼ばれていました。特に平安朝以前の直刀が使用されていた時代は、剣(けん)、劔(つるぎ)、大刀(たち)、横刀(たち)などと呼ばれていました。

 我が大和民族は天目一箇命(あまのまひとつのみこと)を、刀匠の祖神と仰ぎ、以来3万有余人もの名のある刀匠を輩出し、今日におよんでいますが、大和民族は神代から鉄剣時代であって、石剣や銅剣の時代はなかったということになっています。よって、大和民族が日本本土に上陸した際、すでに当時の新兵器である鉄剣を使用していたため、日本平定を容易に成し遂げたと言います。

 この神代の名剣としては古事記や日本書紀に記載されている伊奘諾命(いざなぎのみこと)が佩いていたといわれる天之尾羽張(あめのおはばり)、アジシキタカヒコネノミコトの神戸剣(かむどのつるぎ)、神武天皇が大和の賊を平定したフツミタマノツルギ等が有名ですが、特に天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は、天目一箇命が天照皇大神のために香具山(かぐやま)の鉄で鍛えた剣で、人皇第12代景行天皇の皇子日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の際、草を薙ぎ払い、風向きを変えて危機を免れてからは草薙剣(くさなぎのつるぎ)と呼ばれ、3種の神器の一つとして我国最高の神剣とされています。

 その後、人皇の御代にはいると綏靖天皇紀(すいぜいてんのうき)に倭鍛冶部(やまとかじべ)の刀匠、天津真浦(あまつまうら)に、また、崇神天皇紀(すいじんてんのうき)には、天目一箇命の後裔に剣を造らせたと記してあります。これらはいずれも大和民族特有の刀剣です。また、崇神天皇が大和鍛冶部に命じて造らせた剣十柄(剣10振)、弓二張などを常陸国の鹿島神宮に献納したことにより、我国で刀剣類を神社仏閣に奉納する慣わしの起源となりました。

 垂仁天皇(すいにんてんのう)の39年、天皇は当時の軍閥であった物部(もののべ)、大久米部(おおくめべ)の中から精鋭を選りすぐり、大刀佩部(たちはきべ)を創設し、皇子の五十瓊敷命(いそたましきのみこと)を将軍に任じ、さらに大和鍛冶部に属する川上伴(かわかみのとも)に、一千振に及ぶ大量の剣を造らせ、非常事態に備えて宮中の警備に当たらせました。これが後世に授刀舎人(じゅとうのとねり=宮中護衛職)となりました。これらは伝統の大和鍛冶部を重んじたものであり、まだ、外国から鍛冶の移住がほとんどなかったことを意味します。

 継体天皇(けいたいてんのう)の21年、筑紫国(つくしのくに)の国造(くにのみやつこ)であった磐井一族が反乱を起こした時、天皇はモノノベノアラカビに追討の勅命を下し、その出陣の際に剣を授けました。これが節刀(将軍が出征の際、天皇より賜る刀剣)の始まりです。余談になりますが、日露戦争の時に、東郷元帥が海軍司令長官として出征の際、明治天皇から下賜された、三笠艦上での佩刀である一文字吉房(重要文化財)の太刀はこの節刀という儀式に倣ったものです。

 一方、我国と韓国方面との交通は神代から開けており、素戔鳴命(すさのおのみこと)が大蛇(おろち)退治に使った蛇韓鋤之剣(おろちからさびのつるぎ)はその名から想像できるように、韓国で作られたものであると思われます。神功皇后の時代には百済から日月護身剣、七枝剣、丙毛槐林剣等が皇室に献上されていますが、この前後の時代には高麗剣(こまつるぎ)と呼ばれる名剣が盛んに輸入されており、江戸時代になると新井白石が伊勢神宮の有名な玉纒横刀(たままきのたち)、須賀流横刀(すかるのたち)なども舶来の剣だと説いています。また、推古天皇が蘇我氏の武勇を賞賛したものに、『ますけよ蘇我の子等は、馬ならば日向の駒、太刀ならば句礼(くれ)の真鋤(まささび=古代において剣を意味する)』と詠んでいます。当時、日向国産の馬は最上とされ、句礼とは中国の揚子江南岸の地で、隆盛を極めた呉の国のことで、鉄の産地であり、非常に切れ味の良い鉄剣を造っていました。

 これら舶来品の刀剣が輸入され、賞賛されていることから、当時舶来の剣が我国の剣より優秀であったことを意味し、鍛錬技術も優れていた証といえるでしょう。私も、実際に国内で作られた刀剣類を拝見しましたが、地鉄に変り金(スラッグ等、不純物)等が混ざっており、汚い(荒い)地鉄でした。一方渡来品と思われる丙子椒林剣は地鉄や地沸が大変美しく、何時間も見とれていたのを覚えています。

 その後日本の国力が充実し、刀剣の需要が増大すると、国内でも名剣を造ろうと、大陸から優秀な刀匠を招くこととなり、古いところでは応神天皇の御代に、百済の照古王(肖古王のことか?)の推挙によって、卓素(たくそ)という名匠達が渡来しています。また、推古10年来目皇子(くめのおうじ)が2万5千の兵を率い、筑紫国を基地として、朝鮮の新羅国(しらぎのくに)に進駐した時、忽海漢人(わしうみのあやと)達を大和国から呼び寄せて、多数の武器を造らせて船出しています。これらの鍛冶は勿論日本人ではなく、また、剣等も漢国(中国)の鍛錬法によったもので、日本固有の鍛錬法ではありません。これらの事実から、彼等渡来人や、大陸の鍛錬法が、いかに当時の日本国内の鍛錬法より優れていたかを裏付けています。彼等渡来の刀匠達は韓鍛冶(からかぬちべ)と呼ばれ、神代の昔から引き続き皇室に直属していた倭鍛冶(やまとかぬち)と相対して繁栄していきました。

 一方、政治的方面での大和民族の発展は、景行、応神、推古天皇を経て、熊襲(くまそ)、蝦夷(えぞ)などの征服も一段落し、中央集権が確立するにつれて、各地の豪族の元にいた鍛冶は、必然的に、大和、山城の皇城の地に鍛冶集中の傾向を示します。すなわち、東国蝦夷の御用鍛冶である舞草、月山、宝寿等の一派が、北陸沿岸に沿い、各地にその技法を伝えながら、山城、大和に進出し、また、中国、韓国の影響を強く受けた九州鍛冶も、山陽道を経て、途中に周防(すおう)備後(びんご)備中(びっちゅう)、備前(びぜん)鍛冶の遠源を作りながら上京し、さらに大国主命(おおくにぬしのみこと)以来、豊かな原料と需要に恵まれて安住していた伯耆(ほうき)鍛冶の移動、それに官府直属の大和鍛冶が入り乱れて、互いに覇を握らんものと、短を捨て、長を学び、互いの技を競い合い、世界無比の日本刀鍛錬法の完成へと発展して行きます。

 そして、国の制度上では、大化改新の際に兵部省が設けられ、兵隊や兵器を支配しました。また、文武天皇の大宝元年(701)には有名な大宝の改革(大宝律令)が行われ、鍛冶戸(かじつべ)を各所に置き、兵器の増産を奨励しました。すなわち、従来世襲の国造の部に属していた鍛冶の制度を廃止して、民業として、毎年一定の数を定めて良剣を買い上げ、各刀匠の技能をいっそう発揮するように努め、作者が誰であるか解るように、中心(なかご=柄に入る部分)に作者の名前を刻むようになったのです。

 

日本刀誕生…

 日本刀の始祖としては、大和国(現 奈良県)宇陀郡の天国(あまくに)というのが通説となっています。時代で言うなら、大宝(701)頃とされており、歴史の教科書でも耳にする「大宝律令」によって、この時期から初めて、刀の中心(なかご)に銘(めい=作者の名前)を切るようになったといわれます。天国の遺作中、平家重代と伝えられる伊勢平氏伝来の小烏丸(こがらすまる=現 宮内庁所蔵)は有名です。この小烏丸の形状は、聖武天皇の遺品を納めた正倉院にある 無荘刀(むそうとう)と酷似しており、一目見れば直刀から湾刀(反りのある刀)への過渡期であることが窺い知れます。そういった点でも、天国は在銘日本刀の祖といえるでしょう。ただし、今となっては中心の朽ち込みにより、銘の判読はおろか、銘が切られていたことさえ確認はできません。また、この小烏丸も、元来は正倉院に所蔵されていたのですが、平将門が乱を起こした際、平貞盛がその追討の功によって朱雀天皇より賜り、子々孫々伝えてきたと言います。

 尚、この小烏丸については、室町時代初期に作られたものであり、本物の小烏丸ではないという意見もあり、時代も大宝から下るとも言います。

 日本刀といえばふつう湾曲した形を思い浮かべます。この形になるのは平安時代のなかごろだといわれています。武器や武具の形状は時代ごとの戦闘形式の変遷にともなって変化していったと考えられ、平安時代の初めにはそれまでの徒歩による戦闘形式から、騎馬による戦闘が一般的になり、馬上で扱いやすい湾曲した太刀が誕生したといえましょう。この形状の「太刀」はそれ以前のほぼまっすぐな直刀の「大刀」と区別され、違う字をあてていますが、いずれも「たち」と読みます。