日本刀のお話(その2)

C塩の返礼の太刀  D鉄の話  E菊と刀

 

C塩の返礼の太刀

 武田信玄は塩を送ってもらった礼として越後の上杉謙信に太刀一振を贈ったといわれている。これは現在東京国立博物館に保管されている上杉家旧蔵の山城国来国行作と伝える太刀で「弘」一字の銘文があり、刃長二尺七寸三分、身幅広く、反りの強い豪壮な太刀である。国行は鎌倉時代の正元(1259)頃の刀工で、来派の祖とされる。

 上杉謙信という武将はよほど徳のあつかった人物とみえる。越後守護代で長尾景虎を名乗っていた時代に主君である越後守護で関東管領上杉憲政が十倍といわれる兵力をもちながら、北条氏康に大敗、越後に逃げて謙信を頼り、上杉姓と関東管領職を譲った。関東管領職は室町幕府の職制で、もともとは鎌倉公方の執事職であり、代々上杉の四家(扇谷=おうぎがやつ、山内、宅間、犬懸)が交代でその任にあたったが、うち宅間、犬懸は没落した。残った扇谷、山内の両上杉は仲がわるく、ことごとに対立抗争した。ちなみに最初に江戸城を築いた太田道灌は関東管領扇谷上杉定正の家宰である。劣勢だった主家のために奮闘し、山内上杉家と肩を並べるほどの成果をもたらしたが、主君定正にその実力を恐れられて謀殺された。その時道灌は「これで扇谷上杉は滅びる」と予言したそうだが、それは定正の子朝定の代になって的中する。小田原北条の圧迫を前にして両上杉は結託してこれにあたり、天文十四年(1545)、扇谷、山内の両上杉家と古河公方の連合軍は北条氏に奪われた河越城の奪回をはかり、八万の兵力で河越城を包囲した。小田原から河越城救援に駆けつけた北条氏康軍は八千の兵力で、夜襲をしかけ、これを敗走せしめた。

これが日本三大奇襲戦(@毛利元就が陶晴賢を破った安芸厳島の戦A織田信長が今川義元を破った桶狭間の戦Bこの河越城夜襲戦)のひとつ河越城大夜襲戦である。これにより、扇谷上杉家朝定は敗死、山内上杉憲政は上州を経て越後へ、古河公方は古河へ逃げ帰った。関東管領の職務は東国守護大名の取締まりである。位階は守護大名の上にある。謙信はすでに名目上の職制にすぎなくなってはいたものの関東管領職の地位に直接的に奪い取るのではなくて、譲り受けてついたのである。すでにその前年に信玄に攻められて行き場のなくなった信濃の豪族村上、小笠原たちが頼ってきたこともあって、関東管領の職制のうえからもこれを看過することはできず、また領国越後と隣接する信濃が信玄の完全な支配下におかれる危機感もあって、五度にわたる川中島の合戦がおきる。その宿敵信玄は山国甲州にあって、今川、北条氏から塩を絶たれ困窮するなか、謙信は越後の塩を送り、信玄を救う。その信玄は臨終に際して、事実上の嗣子勝頼に「わが亡き後は越後の謙信を頼れ」と遺言する。また晩年には織田信長から機嫌伺いとして「洛中洛外図」を贈られるなど最高の敬意をはらわれている。謙信は戦国時代の生き馬の目を抜くような梟雄たちとはかなり趣がちがう。生涯に一度も私利私欲のための戦をしたことがなく、その戦はつねに義戦であったという。

 塩を贈った話は江戸時代に成立した『甲陽軍鑑』に出てくる話で、この書物は年表的記載が、正史と齟齬する面から全面的に「信用できない」とする向きもある。しかし、『甲陽軍鑑』成立の過程をたどると部分的に編者小幡景憲が決定稿として容認しなかった記事も含まれるが、大筋は事実であろうとするのが近年の学説といえる。話は脇道にそれるが、明治以降の欧米的な学問研究の態度は前時代の学問の成果を否定することに急で、極端にいえば羊皮で装幀された書物は科学的で信用できるが、和綴本の類は非科学的で信用ならないとする風潮があった。かつて筆者は明治以降に書かれた江戸時代についての研究書の目録を作ったことがあるが、国会図書館に架蔵される公刊本でみると、明治初年から昭和四十年代までの約百年間と、それ以降約二十五年間とでは、後の二十五年間の方が圧倒的にその数が多いことを発見して唖然としたことがある。塩の話も政敵に対してそんな行動をとるはずがないという、予断にみちた憶測から長い間作り話として扱われてきたきらいもある。

 その返礼としての太刀一振はさすがに見事な出来であるが、銘に「弘」一字を刻するのみであるから、上杉家が古来から伝えたように山城国来派の祖である国行の作とは断定しがたいものがある。甲斐武田家の祖は源家の嫡流八幡太郎義家の弟新羅三郎義光と伝え、八幡太郎は前九年の役、後三年の役で東北への往復の際、関東に赴任していた義光の館に立ち寄り父頼義以来の鎧や旗を与えたといわれ、それが武田家に重宝として伝わる八幡太郎の旗、楯無の鎧だという。このうち旗は日の丸の図柄で現在山梨県塩山市の雲峰寺に「御旗」として、鎧は同じく塩山市の菅田天神社に国宝に指定され現存している。また太刀の重宝として、義弘の太刀があったといわれる。義弘は正宗の弟子と伝える越中松倉の郷義弘のことであろう。義弘の作はすべて無銘であって、古くから吉光、正宗とともに三作と呼ばれ神品とされた。しかしこの重宝は現存せず、記録の上からも旗と鎧ほど頻繁に登場しない。旗と鎧が八幡太郎義家と同時代のものだとして、義弘の太刀の製作年代はそれから二百年以上経過した時代のものである。当初から旗と鎧を重宝として伝えたのが事実だとすれば、義弘の太刀は中途から重宝に加わったことになる。甲斐武田家の系統は順風に平安期から戦国期に継承されたわけではむろんない。この太刀が重宝に加わった時代は定かでないが、武田家が甲斐一国を統一して名実ともに守護の座をふさわしくするのは信玄の父信虎の時代である。いずれにせよ確証はないが、信玄が謙信に贈ったとされる「弘」銘の太刀は武田家の重宝である義弘の太刀ではないかと思うのである。謙信相手に塩の返礼として、つり合いがとれるものといえば、それしかない気がしてならない。

D鉄の話

 いうまでもなく、日本刀は鉄で作られている。これに使われる鉄は鉄鉱石を溶鉱炉で溶かして抽出される鉄ではない。川や山野から砂鉄を集め、木炭を熱原料にして抽出されたものだ。日本ではこの方法による製鉄を「たたら製鉄」と呼んでいる。たたらの語は踏鞴(ふみふいご)に発する。鞴は送風装置のことで、手で操作するものと、足で操作するものとがあり、手は小規模な送風にもちいられ、刀鍛冶などの「小鍛冶=こかじ」はこれによって熱を得る。足で踏んで動力とするものが踏鞴だ。たたら製鉄はこれで行ない、「大鍛冶=おおかじ」と呼ばれる。「大鍛冶」の生産する鉄素材を「小鍛冶」が具体的に製品化するわけだ。

 製鉄技術の日本への伝来は、5世紀〜6世紀初頭にかけて朝鮮半島からもたらされたと考えられている。以下わが国のたたら製鉄による鉄類である鉄、鋼、銑(ずく)のことを「和鉄」と総称する。鉄、鋼、銑はそれぞれ炭素の含有量の違いによる分類である。炭素量が大きければ鉄は堅くなり、その分脆い。

 わが国のたたら製鉄遺跡は各地でみられるが、代表的なものは中国地方に集中している。第一の理由は同地方で採取される砂鉄がリン、イオウなどの含有量が少ない良質なものであるということだ。リンやイオウは鉄に脆い性質をもたらす要素で、現在の鉄鋼製造でもその含有率を0.03パーセント以下とする基準が定められており、さらに極限にまで低下させることの研究が続けられている。和鉄はその基準値を大きく下回っていて、非常に純度の高い鉄である。

 鉄器の出現とその生産力の消長は世界勢力分布を塗り替えてきたが、現在、世界最古の鉄製品といわれるものは、紀元前2300年と推定されるヒッタイトのアラジャ・フォユク王の墳墓から発見された鉄剣を含む副葬品である。このうちの鉄製ピンを成分分析した結果、人工鉄からは考えられない3パーセント以上のニッケルが検出された。このことからこれらの鉄製品は隕石のうちの隕鉄から製造されたと考えられている。隕石は石質隕石、石鉄隕石、隕鉄に分類されるが、隕鉄は主成分がニッケルと鉄からなるものである。また、中国でも河北省で紀元前1400年と推定される周囲が銅製で刃の部分が鉄製の鉞(えつ=マサカリ)が出土しており、この鉄も隕鉄が素材だと考えられている。隕鉄は容易に採取できるものではないし、原料として大量に供給できるはずもないから、当時の生産量は微少であったが、鉄はそれまでの金属に比べて格段に強固な性質を有していた。これで製品を作ることが至上命題になったろうことは容易に想像できる。中国では紀元前6世紀には銑鉄精錬技術が開始されたといわれ、また紀元前5世紀のものと思われる錬鉄の棒が発掘されている。「銑鉄」とは鋳物用の鉄、「錬鉄」は銑鉄よりも炭素量がすくなく、鍛えることのできる鉄のことである。これらの原料は鉄鉱石を用いた可能性が高いといわれている。日本でも当初は大陸で精錬した鉄資材である「鉄てい」などを輸入してそれで鉄器を作っていたとされる。古墳時代の直刀などの大半は鉄鉱石からの鉄が原料とみられている。しかし、3世紀の弥生時代の遺跡から出土した大刀が砂鉄系の鉄製である可能性を否定できないなどの問題もあり、大陸系の鉄がすべて鉄鉱石、和鉄が砂鉄系だとはっきり分けて考えることは難しい。ただ、自然界で鉄の純度をもっとも多く保っているものは砂鉄で、良質な砂鉄が広範囲に分布しているわが国は各地でたたら製鉄が営まれた。これによる製鉄技術は日本刀の出現と製作に必要不可欠な意味をもっていたことだけは断定できるのである。

 和鉄は現在では馴染みのないものになってしまったが、江戸時代まで、わが国の鉄製品の素材はすべて和鉄である。例外的に「南蛮鉄」と称する輸入された洋鉄が日本刀や甲冑に用いられたこともある。鉄鉱石から作られる鉄と砂鉄を原料とした製鉄技術の違いは、前者は高温で溶解し、それほど純度の高い鉄類を作ることはできないが、歩留まりがよく原料も得やすいということ、また、近代以降の洋式製鉄は一定の品質のものを大量に生産できる利点がある。後者は前者に比較すると低温による半溶解製鉄できわめて高い純度の鉄が得られる反面、歩留まりが悪いということがあげられる。それでも、中世から近世にかけて日本の製鉄、冶金技術は世界の水準をはるかに超える優秀さを保っていた。それは日本刀の完成度の高さから証明できるのである。だが歩留まりの悪さは「近代化」にとって決定的な障害となった。幕末に日本各地で製鉄のための反射炉が試作された。韮山代官の江川太郎左衛門、薩摩藩主島津斉彬が作ったものが有名だが、その目的は洋式製鉄にあった。高温溶解のための炉の建造に必要な高温耐火煉瓦作りなど洋式製鉄技術がもたらす生産物のひとつひとつは、産業革命の階梯の原動力といえる。明治以降の近代化は製鉄技術の洋式化があって実現した。まさに「鉄は国家」であった。この流れのなかで、たたら製鉄は急速に衰退して大正14年頃を最後にほとんど消滅したという。

 さて、日本刀はたたら製鉄で得た鉄類を使用して製作される。それも均一の鉄ではなくて、純度の異なった鉄を組み合わせて製作される。それによって構造上に硬軟が生じ「折れず、曲がらず、切れる」美しい日本刀が生まれるのである。近世以降、日本刀作製のための上質な鋼は玉鋼(たまはがね)とも呼ばれた。新しい刀がほとんど作られなくなった明治以降にあって、たたら製鉄が大正末年まで細々とした命脈を保ったのは高級な和式鋸や、高純度の鉄を必要とする研究機材の作製のためである。ところが昭和8年になって軍刀作りのために島根県の横田町でたたら製鉄が復活する。これを「靖国たたら」と呼ぶ。ここで作られた玉鋼は東京九段の靖国神社に送られ、境内に設けられた五つの鍛錬所で敗戦までに約8000本の日本刀が製作されたという。

 敗戦後、たたら製鉄は再び途絶える。しかし、昭和52年、たたら製鉄は島根県横田町の「靖国たたら」跡によみがえる。「日刀保たたら」という。たたら製鉄技術を伝える「村下=むらげ」と呼ばれる技術者も高齢ながら生存しており、それらの技術の保存にかろうじて成功した。これは財団法人日本美術刀剣保存協会が、新作日本刀の材料としての玉鋼の払底を解消するために設立、操業を開始したものであり、現在も継続している。この消息は『たたら製鉄と日本刀の科学』(鈴木卓夫 平成2年 雄山閣)に詳しい。

E菊と刀

 さいきん二十数年振りにルース・ベネディクト『菊と刀』を読み返した。それに誘発されて戴季陶の『日本論』、E・S・モース『日本その日その日』、『日本の家屋』も引っぱり出して拾い読みした。

 読もうと思い立ったきっかけは厚生官僚の汚職事件だ。私は起訴された官僚個人の資質に関心はない。ただ連日の報道に接して妙に腹がたつのと、われわれの社会状況への不安感が日毎につのるのである。うまい汁を吸う者への嫉妬心と同時に税金の不正支出への怒りもある。しかし、まわりを見渡せば似たような構造で仕事をしている友人知人もいないわけではない。司馬遼太郎が『坂の上の雲』のなかで「明治の官僚たちは痛々しいほど清潔だった」旨を述べていて、それと今度の事件を比較して嘆くつもりもない。すべての悪事や隠し事が露見してしまうような社会の到来もまっぴらだ。だが、これほどまでに金を欲しがる習性を日本人全体はいつから身につけたのだろうか。この先もずっとこうした社会状況のなかで生きていかなくてはならないのだろうか。『菊と刀』は五十余年前の日本社会の分析である。その内容がすべて肯定すべきものでないにせよ、現在の社会との対比のなかで参考にすべき所見を見いだそうと思ったのである。

 新聞の朝刊に挟まれてくるチラシの類、新聞広告の中身、テレビのコマーシャルは物を買え、買えと迫ってくる。迫り方の技術は日々昂進する。その上に否応なく払わなければならない公共料金の高さ。それらを非難してもまわりまわって、それぞれの生活の糧になるのだから天に向かって唾するようなものだ。悠々自適に憧れれば、不正蓄財の誘惑をはねのけるのは大変難しい。「おねだり妻」というなかれ。程度の差はあっても、物をねだらない妻がいたらお目にかかりたい。程度は増幅するものではないか。

 『菊と刀』は1944年、米国政府の戦時情報局が交戦中の敵国である日本の研究を文化人類学者ルース・ベネディクト女史に依頼して出来上がった書物である。題名の『菊と刀』は「美を愛好し、俳優や芸術家を尊敬し、菊作りに秘術を尽くす国民に関する本を書く時、同じ国民が刀を崇拝し武士に最高の栄誉を帰する事実を述べた、もう一冊の本によってそれを補わなければならないというようなことは、普通はないことである」というフレーズに拠っている。つまり正反対の性格を同じ民族、個人が同時に所有しているという枠組みでこの書物は書かれているのである。

 この書物は米国の日本占領政策に影響を与え、またそれ以上に戦後の日本人に影響を与えた。たしかに鋭い分析と観察が随所にみられ、同じ交戦国である日本の公的な米国研究と比べれば雲泥の差があることが日本人には衝撃であったと思う。しかし、今読み返すと、似通っているところはもちろんあるが、ここで指摘される日本の良さも悪さもすでに過去のものだ。事態はもっと複雑で異様に悪化している。

 日本人は分かりにくい、とはもう耳にタコのできるほど聞かされた言葉だ。『菊と刀』もこのトーンで貫かれている。しかし、日本と日本人がわかりにくいのは欧米人やアジアの人々ばかりではない。当の日本人だって、日本や日本人が分かりにくいのだ。明治以来わが国の学問や制度は欧米の方法によっている。この文脈で書かれる政治学、経済学の論文はわが国の分析、説明に向かう限り本文と同じくらいの注釈をつけなければ欧米人はおろか、日本人にも理解しがたいものになる。どうしてそうなるのか。私たちの持っている習慣や感性と採り入れた学問の方法や制度とを真剣に対峙させ、学問や制度を練り上げてこなかったつけが回っているからだ。片方から片方への器用な飛び移りですましてきた毒がいまや全身にまわりつつある。

 現在の日本の根本的な政治形態はなにか、日本の資本主義はいかなる段階か、日本の社会保障はどういった傾向に分類されるのかを考えてみると、最初の出発からして大いに迷う。小沢一郎が「普通の国」になろうと提案した時、私は期待した。われわれにはもう政治や経済の上で独自の、普遍性を獲得するような制度を創出する機会が失われているのだから、我慢して国際社会で普遍的と思われているルールを議論の前提にして改革なり、進展のための基本をつくり、その上で競争しようということを堂々と語り、真正面から行動するのであれば私は小沢一郎にカンパしようとさえ思ったのである。

 価値観が多様なのは結構だけれど、賛否どちらでもかまわないから、最初の前提、最初の共通認識がわれわれにはないのではないかと思われて仕方がなかったからである。まったく議論がかみ合わない事態が続くのはたまらないことだ。その上で日々の制度は運用され、これをなしくずしと思わない者は一人もいない。「なしくずし」という共通認識だけは確かにあるのかもしれない。しかし「なしくずし」がネガティブな価値ではないと思っているらしい人々もいる。たとえば「従軍慰安婦」を含む戦後処理問題にしても、「従軍慰安婦」の存在を否定して中学生にはその言葉すら教えないようにしろといって議会決議をおこなう勢力が存在する。彼らには問題を解決しようとする意志がないとしか思えない。「なしくずし」はよいことだ、と定義しているようだから、国語辞典の存在意味がなくなる。これも「自由な発想」、「価値観の多様さ」のうちに含まれるのだろうか。わたしはこの二つの言葉が大嫌いだ。

 どういう問題があって、なにを議論し、どう解決していくのかという共通認識を設定しないで事態を推移させるというのであれば、解決策はただひとつ物理的な暴力に訴えるしかないのだが、ここではおそらく暴力の行使には誰もが反対するだろう。議論の前提も設定せず、暴力も否定し、事態だけを推移させようというのだから、わかりにくさはここに極まるのである。
 私たちは日本刀を崇拝してきただろうか。武士に最高の栄誉を与えてきただろうか。そのように強制された記憶のある人々は存在するだろう。その記憶の中身は暗くて、いかがわしさがつきまとっていることが少なくないだろう。しかし、私たちは日本人と呼ばれる民族なのである。それ以外の選択は国際的に無効なのである。日本国内は国際人であふれているが、国外には国際人はいない。私にとって日本刀は物体であって、それ以上でもそれ以下でもない。好戦的な気質を助長するとも思えない。ただ美しいと私は思い、その内実のデータを知れば知るほど興味が尽きないのだ。かつて人口の1パーセント程度もいなかった武士に最高の栄誉を与える必要はさらになく、むしろ日本刀を武士道というような宗教的な呪縛から解放することが日本刀を鑑賞するうえでは必要だと思っている。

 私たちは何かを失って、それでおびえている。おびえを金で解決しようとしている。失ったものはなにか。私には日本の文化の全体像をとらえ、そのなかで過ごす生活だと思われてならない。菊作りも日本刀を眺めるのもふたつながらかつての日本人は相矛盾する要素とは思っていなかった。菊作りに象徴される平和愛好者の側面だけを選択しているような錯覚はなにによってもたらされたのだろうか。混乱はますます深まっている。この混乱は個人がますます金を必要とする社会のあり方の度合いと比例している。