日本刀のお話(その1)

 

@地妖刀村正  A近藤勇と虎徹 B刀の切れ味 

 

@妖刀村正

 俚言に従うと村正は相州の岡崎五郎入道正宗の弟子だという。邪悪な性格で師の言を入れず、邪剣を作って破門されたり、焼入水の温度が秘伝として自分には伝えられないのを恨んで、密かに、焼入水を張った舟に手を差し込み、温度を確かめているところを師匠に見つかって腕を切断されたりする。その作品はひたすらまがまがしい切れ味だけを追求するが、最後には正しい剣に破れ去る。まことに村正は人物、作品ともに退治すべき邪悪、避けるべき不吉の代名詞として忙しく使われた。実相はどうなのか。

 まず正宗弟子説。五郎入道正宗は鎌倉時代末期、14世紀前半に鎌倉で作刀したとみられ、室町時代の刀剣書『観智院本銘尽=かんちいんぼんめいづくし』、『往昔抄=おうせきしょう』にその名がみえる。例外的な一口の短刀を除いて在銘作がなく、古くから京都の粟田口藤四郎吉光(正元頃=1259)、正宗の弟子とされ、27歳で夭折したという越中松倉の郷義弘(ごうよしひろ)とともに古刀の三作と称され神品とされた。この郷義弘にも在銘作は存在しない。

 湯浅常山の『常山紀談』(元文四年=1739)に関ヶ原の合戦後、田中兵部大輔吉政が石田三成を生け捕りにした時、三成はうち笑って「秀頼公のために害をとりのぞき、太閤の恩に報いようとしたが、運が尽きた。何も後悔することはない。これは太閤より賜った正宗の脇指で、切り刃正宗という。これを形見に進呈しよう」という記事がある。三成の場合は死に臨んでの言葉と行動だが、権力者は報償として盛んに刀剣を与えた。時には約束していた一国の代わりに刀を与えたことから、一国に相当する刀の意味も込めて「一国云々」とよばれる名物もある。しかし、いくら名刀でも臣下としては一国の方が切実な要求であるにちがいないものの、与える方は国の手持ちがなければ仕方がなく、刀でごまかしたのが真相かもしれない。いずれにせよ、徳川時代にはある程度の家格の大名家には武門の表道具として正宗は必ずといっていいほど所蔵されたという。もちろん、現在ではそれらの「正宗」がすべて五郎入道正宗作として承認されているわけではない。実は正宗と称する刀工は五郎入道正宗の他に十二人いるといわれている。そのことはいずれ触れるつもりだが、ここでは正宗といえば五郎入道正宗である。灘五郷の清酒にまでその名前が冠されているのは正宗の刀そのままの清冽な切れ味にあやかったものであり、刀工の知悉度から言えば古今の王者であろう。

 いっぽう村正は伊勢桑名の刀工で、室町時代後期、文亀元年(1501)銘の刀が最初期とみられ、それから室町時代末期まで数代を数えるが正宗の活躍期とは200年以上の開きがあるから弟子説は成立しない。正宗を正とし、村正を邪とする正邪の対照として用いられた説だろう。そこまで村正を嫌悪する風潮が起こった原因とはなんだろうか。また嫌われることによって時代をこえて村正の名も広く知られることになる。

 村正妖刀説の出所は徳川将軍家にある。徳川家康の祖父清康は天文四年(1535)尾張国森山で、阿部正豊に斬られたがその刀が村正、天文十四年(1545)父広忠が家来の岩松八弥にあやまって股を突かれたのが村正の小刀、家康本人も幼時に自分の不注意で怪我をしたのが村正の刀、さらに嫡男信康が織田信長に敵通の嫌疑をかけられ、天正七年(1579)遠州二股で自害したが、その時介錯した天方山城守が使用した刀が村正と、家康にとって村正の作は不吉このうえない刀になった。また、家康が臨んだ合戦においても、敵方の勇将知将の刀がすべて村正であったという。すべてというのは誇張だろうが、真田幸村、福島政則などの佩刀は村正であったと伝えられる。そこで家康は村正を自分のみならず天下の禁忌とするに至ったのである。村正を公然と所持する徳川一門、家臣団、大名は将軍家への逆心を意味すると。

 村正を正宗の弟子にして、正邪の対照の方便にしたのはむろん徳川将軍家ではないだろうが、講談、浪曲の類にまで昇格した俚言の発生は時の権力の恣意を正当化する意思を包んでいたのかもしれない。しかし、調べればすぐに分かる虚構性を持つことで、この禁忌を笑っていた可能性もある。実際に村正作の刀剣類がこの禁忌によって抹殺されたかといえば、なかには銘を消されたり、改竄されたりしたものも少なくはないといわれるものの、村正作はかなりの数が現存する。江戸時代には禁忌ゆえにかえって密かに珍重された趣すら感じられる。それを裏付けるように徳川ご三家筆頭の尾張徳川家には極上作の村正が長く秘蔵され、今もみることができる。

 村正には、刀、短刀、槍などの作例があり、ことに短刀が多いのが目立つ。刃文は尖った互の目で表裏の刃文を揃えて焼くのが特徴である。特に二代村正の作は優品揃いで人気が高い。

 

 

A近藤勇と虎徹

 

 新撰組局長近藤勇(1834〜68)が虎徹の刀を愛用していたことはよく知られている。

 近藤は文久三年(1863)新徴組に応じ、その当時に江戸の刀屋でその虎徹を買ったと伝えられている。その頃の近藤に正真の虎徹が買える可能性はなく、果たしてその刀は、幕末の天才刀工源清麿の刀を虎徹に改竄したものであったといわれている。たとえ偽物でも虎徹の刀を正真として買う以上、相当の金額を近藤が支払ったことは間違いない。

 虎徹は江戸時代前期万治〜寛文(1658〜1672)頃活躍した刀工で、長曾禰虎徹入道興里という。越前の生まれで、初め加賀金沢で甲冑師となり、後近江長曾禰に住んで刀工となり、さらに江戸に移住し大成した。新刀期最高の評価を受ける刀工である。作刀を始めたのが50歳を過ぎてからといわれ、作風は剛直で独創性が強い。江戸の首切り役人の山田浅右衛門吉睦が文化12年(1815)に公刊した「懐宝剣尺」という刀の切れ味のランキング書に、最上大業物として記載されている。

 近藤でなくても、このような正真の虎徹が簡単に入手できるとは考えられないから、近藤は金銭的な無理はともかく、いろいろな手段を講じたものだろう。近藤が買った当時、虎徹の没後200年以上は経過している。すでに触れた通り、この刀は近藤とほぼ同時代人といっていい清麿の作を虎徹に仕立てた偽物である。しかし、近藤が正真の虎徹の作を見たことがあるとは思えないから、虎徹の刀だと言われ、相応の金額を提示され、自分で納得すれば近藤にとって虎徹は虎徹であった。また清麿は江戸の四谷に住んだことから「四谷正宗」といわれた名手で、刀の出来映え、切れ味も虎徹に遜色はなかったと思われる。また、清麿は逸話がたくさん残る人物で、勤王思想に同感して、水戸の弘道館の碑文に感動したり、長州に渡って作刀もしたが最後は四谷で自刃している。

 新撰組副長の土方歳三にも同じような話が残っている。土方は古刀の和泉守兼定の刀が欲しくて、ほうぼうの刀屋を探し回るが、この水準の刀は大名道具と決まっていて、だれも相手にしてくれない。それでもなんとか偽物を手にいれたが、後年それに気がついて、新撰組の盛時になって本物を入手したと伝えられている。

 さて、近藤の虎徹だが、幕末の京都で猛威をふるい、近藤と虎徹の盛名を馳せる。近藤は武蔵国三多摩の郷士宮川氏の出で昌宜という。天然理心流の剣士であったが、道場稽古はあまり得意ではなかったと伝えられる。新撰組の撃剣稽古は竹刀、木刀の類は用いず刃をつぶした真剣で行われ、実戦さながらの激しさであったという。有名な池田屋事件では最初、近藤を入れてわずか五人で襲撃を開始し、先頭にたってまず土佐の人北添佶麿を一撃で倒したといい、近藤の写真をみると頑丈そうないかつい顔で、いかにも膂力が強靱な印象をもつ。ある時近藤は江戸に立ち戻った際、虎徹の入手先の刀屋を呼び出したという。刀屋がさてはかつて売った虎徹の偽物であることが露見したかとおそるおそる訪ると、逆に「この虎徹のおかげで出世した」と礼を言われたと伝えられる。

 幕末という時代の争闘はつねにテロリズムの様相を帯びた異様な時代である。そこでは刀の使われ方も普通ではない。街頭での斬り合いが日常的に行われたことはどの時代にも考えられない。それゆえ幕末に流行した新作の刀は頑丈なものが多い。近藤勇はこの時代と空気を代表する剣士である。近藤が虎徹のように超高級な刀を、実戦の上で強く欲したというのは道具に対する絶対的な信頼を希求したのだと想像するが、この世で一番切れる刀を、職業的な戦闘者である自分こそが所持し、使用しなければならないと考えていたとしたら、武士とは違う襲撃者の存在が職業になりうると考えたという点で、近藤の感性にはあたらしいものさえ感じさせる。近藤勇は、戊申戦争で、甲斐国勝沼で官軍と戦って敗走、下総国流山で捕えられ、武蔵国板橋で斬首された。伝えられる斬首の光景は残忍な報復劇そのものであった。

 その後この刀は維新の元勲黒田清隆が所蔵し、大正4,5年頃になって日露戦争時の外交官で、ポーツマス講和条約締結に努力した金子堅太郎の所有になったが、大正12年9月1日、関東大震災によって東京麹町の金子邸で焼失した。長さは二尺三寸、板目肌、刃文は互の目乱れ、拵も幕末当時の朱鞘であったという。

 

 

B刀の切れ味

 刀の茎(なかご)に「二ツ胴切落」「三ツ胴截断」などと金象嵌してあるものをしばしばみかける。これは、江戸時代、身分は浪人のまま「徳川家御腰物御様御用(とくせんけおんこしものおためしごよう)」というプロの試刀家としての山野加右衛門、初代が加右衛門の門弟としてこの道に入り、以後明治14年に斬首刑が廃止になるまで七代にわたって続いた山田浅右衛門などが、罪人の屍を使ってその刀の切味を試した結果の表示である。とくに山田浅右衛門家は二代吉時の代からこの職を独占した。

 刀がよく切れるかどうかを純粋に判断するには、最高の技量をもった切り手によって、据物(すえもの)をもって試さなければならない。この場合は撃剣の上手、下手ということは意味せず、動かぬものを切る技術に長けた人物ということになる。たとえていえば、ゴルフクラブの試し打ちに機械を使うことが行われるが、切り手には機械のような正確さと力の平準化、記録性が求められる。こうした条件を備えた者がプロの試刀家である。これらの試刀家の存在は江戸時代の初期、島原の役以降太平の世にあって、刀剣が武器としての日常性をはなれてから始まったもので、たてまえとして物の役に立つ刀剣を所蔵したり、進物につかったりする保証のうえの必要性から生まれた。「治にいて乱を忘れず」の類の必要性である。

 山田浅右衛門は首切役人といわれているが、身分は浪人であり、徳川幕府の行刑制度のなかの斬刑の執行を担う公的な地位についていたわけではない。この職の正式な担当は三奉行所(南・北・牢)与力の支配下にある首切同心であった。しかし、試刀家としてはどうしても死刑執行後の人体が必要であり、一方首切同心は直接斬刑の執行にあたりたくないという事情もあって、山田浅右衛門に斬刑執行を委託するようになったようだ。浅右衛門は斬刑一回につき二分(一両の半分)の手当を受けていたが、これは正式な役人である首切同心に渡していたという。そればかりか、要路に少なからぬ付け届けをしたり、この職の維持にはかなり気を使っていた様子がうかがえる。それというのも、土壇場で罪人を処刑した後、首なしの死体を隣接したお試場に運び、かねて依頼を受けた刀の試切こそが浅右衛門の本職であり、これは有力な大名、旗本からの有償の仕事だったからである。

「土壇場」は、辞書には@斬罪の刑場。しおきば。A転じて、せっぱつまった場面。進退きわまった場面。などと記載され、筆者はしばしばAと親しく、最近では、土壇場でキャンセルすることを「ドタキャン」などというから、土壇場という言葉は若い人たちにもなじみが深いとみえる。また、お試場にも土壇場がある。ここでは場を除いて土壇といい、ここでの試切を土壇居物(どたんすえもの)という。土壇とは文字どおり、土を高く盛り上げてある形状をいい、もともとは田の畦を意味する。織田信長の家臣に谷大膳亮という人がいて、ある時鷹狩りにでて、田に死人がいるのをみつけ、この死体を畦に置いて帯刀の試切をおこなったのが始まりといわれている。

 朝右衛門の試切代価は一振りにつき、現在の3〜40万円に換算される。首切り手当の10倍以上である。そのうえ、死体から生肝を取り出す権利も得ていて、秘伝の技法で数種の薬を製造、販売した。「浅右衛門丸」の名で、特に労咳に薬効があったという。江戸時代から明治の初めにかけて、土俗医学における人間の生肝による薬効への信仰は非常に根深いものがあったらしく、同種の薬は他にも見られる。また、薬効への信仰は価格と比例すること、今日と同様であり、山田浅右衛門家はたいへんに裕福で、内実は一万石の大名に匹敵したという。明治6年に山田家から宮内省に献上された太刀に「小竜景光」がある。景光は鎌倉時代末期、正安(1299〜1301)頃の備前長船の刀工で、この太刀は現在国宝に指定され、東京国立博物館に保管されているが、かつて楠正成が所持したといわれる天下の名刀である。当時の時価で五万両といわれたが、浅右衛門家の富裕さが生半可なものでなかったことの証明だろう。

 さて、試切は土壇場で、罪人の首の第三頸骨と第四頸骨の間を一刀で切断する。首を検視役人に示した後、首なしの死体を試場に運んで通常は二体なり三体を、下をうつぶせにして交互に重ね、挟み竹で固定して、切柄と鉛の鐔で重みをつけた刀でみぞおちの部分を切り下げる。このとき下の死体の腹の皮一枚を残すのが作法である。下の土壇まで切りつけると刀が破損するおそれがあるからだ。なかには、五ツ胴などという、台の上から飛び降りざまに切らなければ不可能ではないかと思われるものもある。これらは微細に記録され、それをもとに五代の吉睦は『懐宝剣尺』(かいほうけんじゃく)なる刀剣書を著し、幕末のもっとも売れた本のひとつに数えられている。これは刀の切れ味のランキング表といったもので、主に慶長以降の新刀を扱っているが、古刀期の刀も相当ふくまれている。ランクは「最上大業物」「大業物」「良業物」「業物」の4種類で、「最上業物」だけ紹介すると、古刀では長船秀光、初代兼元、二代兼元、三原正家、長船元重。新刀は長曾禰虎徹、多々良長幸、陸奥守忠吉、初代津田助広、初代仙台国包、初代肥前忠吉、長曾禰興正、初代長道となっている。また、この吉睦の著といわれるものに『古今鍛冶備考』がある。これは刀剣の百科事典というべきものである。この二著は柘植平助方理という人が実際の著者と目されているが、刊行に際し資料、資金の提供は吉睦であった。勝海舟の父、小吉はこの吉睦の次代吉昌と親交があり、浅右衛門の弟子になって土壇切りをして遊んだとその自伝にある。海舟自身も浅右衛門家との親交を父から受け継いだ。

 筆者も試切をしたことが一度だけある。もちろん人間ではなく、古畳、巻藁、自転車の車輪のホークを束ねたものなどである。使った刀はほとんどが現代刀で、なかには幕末頃の細身の無銘の短刀もあった。短刀の試切は長い柄をつけておこなう。つまり薙刀のようにしておこなうのである。実はこれが一番切れた。腕に覚えのない者にとっては、遠心力を増す柄の長いものが有利であることがよく分かった。薙刀は女性用といわれるゆえんである。今から20年以上前、千葉県の印旛沼のほとり、義民佐倉宗吾が出てくるのではないかと思われるような藁葺き屋根の小さな農家の離れで、泥臭い鰻を肴に熱燗を呑んで身体を暖めなければとても動けないような氷雨の降る寒い日のことだった。